京城日報 1942-05-22
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- Publication date
- 1942-05-22
- Collection
- kjnp-archive; newspapers; eastasia-periodicals
- Language
- Japanese
- Item Size
- 66.7M
Japanese newspaper published in Korea until 1945. Includes early issues under title 京城新報 and 朝鮮日報
- Addeddate
- 2021-10-03 13:32:46
- Identifier
- kjnp-1942-05-22
- Identifier-ark
- ark:/13960/t86j72f4m
- Ocr
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- Page-progression
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- 0.0.15
- Ppi
- 400
- Scanner
- Internet Archive Python library 2.1.0
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Reviewer:
tpjv86b
-
February 23, 2022
Subject: 『皇民魂』無くして”すし”は握れぬよ
Subject: 『皇民魂』無くして”すし”は握れぬよ
内鮮一体は「国語」から
『皇民魂』無くして”すし”は握れぬよ
金子梅吉さん語る
龍山界隈で「桜ずし」といえば誰一人知らぬ人もないほど”おすし専門店”として有名な元町二ノ九〇金子梅吉(四二)一家も亦挙げて他に劣らぬ”国語常用と和服”の家だ。
二十貫余の巨躯に愛想のいい笑みを湛えた和服姿の「桜ずし」の親爺さんが”半島生れですよ”と云ってもちょっと信じかねるくらい板についた着物の着こなしから、歯切れのいい国語に同じ半島人でさえ思わず”?”と反問したくなるほどで、奥さんも二人の子供さんもみんな和服愛用者だ。
皇民精神に生きる金子さん一家には国語常用など今更ない、心身ともに日本人だ。大正十四年、十五歳のとき東京に赴き、十九歳までみっちり「おすし」の握り方に精を出して来た金子さんは帰鮮すると間もなく夫人徳子さん(四〇)と結婚。それ以来現在の場所に二十年間和服と国語で評判をとり、”桜ずし”として広く馴染まれて来た。
その後は東京仕込みの国語以外話したことがないという金子さんは「どうもなんですよ。今ではかえって朝鮮語の方が使いにくいんですよ」と面映ゆく笑っている。鮮服だって勿論持ってもいないが、子供の時分からただの一度だって着たことはないとのこと。
創氏なんかも内地にいるときからのことで子供の将来を考えると子供達の名前だって内地風につけていなくちゃ将来、真からの皇民には育てて上げられないと。先ず奥さんから創氏を始め、長女の秀子ちゃん(七つ)=元町国民学校一年生=長男の洋三ちゃん(三つ)と名付け、育児も一切国語と和服だけで押し通し、今では子供さん達は一つも朝鮮語を知らぬばかりか、半島人であるということすら知ってないそうだ。そのため秀子ちゃんの入学問題に就いては随分頭を悩まされ、定員で駄目だというのをやっと入学を許可して貰ったという笑えぬ挿話もある位だ。
「現在私のところには奉公人が二十人ほどいますが、これも全然朝鮮語は使わせないんですよ。再来年からは朝鮮からも、どしどし兵隊さんになって行くというのに国語を十分話せないようでは申し訳ありませんよ」
金子さんは本当に一日も早く半島人全部が真からの日本人になり切って呉れにやいかんですからね...と心から希うように語った。【写真=金子さんの一家】
御褒美を献金
校洞国民学校四年生尹應變君は二十一日鐘路署を訪れ、同署主催の「防空作品展覧会」に灯火管制遮光具を出品し特選さた際貰った賞金をそっくり献金寄託した。
『皇民魂』無くして”すし”は握れぬよ
金子梅吉さん語る
龍山界隈で「桜ずし」といえば誰一人知らぬ人もないほど”おすし専門店”として有名な元町二ノ九〇金子梅吉(四二)一家も亦挙げて他に劣らぬ”国語常用と和服”の家だ。
二十貫余の巨躯に愛想のいい笑みを湛えた和服姿の「桜ずし」の親爺さんが”半島生れですよ”と云ってもちょっと信じかねるくらい板についた着物の着こなしから、歯切れのいい国語に同じ半島人でさえ思わず”?”と反問したくなるほどで、奥さんも二人の子供さんもみんな和服愛用者だ。
皇民精神に生きる金子さん一家には国語常用など今更ない、心身ともに日本人だ。大正十四年、十五歳のとき東京に赴き、十九歳までみっちり「おすし」の握り方に精を出して来た金子さんは帰鮮すると間もなく夫人徳子さん(四〇)と結婚。それ以来現在の場所に二十年間和服と国語で評判をとり、”桜ずし”として広く馴染まれて来た。
その後は東京仕込みの国語以外話したことがないという金子さんは「どうもなんですよ。今ではかえって朝鮮語の方が使いにくいんですよ」と面映ゆく笑っている。鮮服だって勿論持ってもいないが、子供の時分からただの一度だって着たことはないとのこと。
創氏なんかも内地にいるときからのことで子供の将来を考えると子供達の名前だって内地風につけていなくちゃ将来、真からの皇民には育てて上げられないと。先ず奥さんから創氏を始め、長女の秀子ちゃん(七つ)=元町国民学校一年生=長男の洋三ちゃん(三つ)と名付け、育児も一切国語と和服だけで押し通し、今では子供さん達は一つも朝鮮語を知らぬばかりか、半島人であるということすら知ってないそうだ。そのため秀子ちゃんの入学問題に就いては随分頭を悩まされ、定員で駄目だというのをやっと入学を許可して貰ったという笑えぬ挿話もある位だ。
「現在私のところには奉公人が二十人ほどいますが、これも全然朝鮮語は使わせないんですよ。再来年からは朝鮮からも、どしどし兵隊さんになって行くというのに国語を十分話せないようでは申し訳ありませんよ」
金子さんは本当に一日も早く半島人全部が真からの日本人になり切って呉れにやいかんですからね...と心から希うように語った。【写真=金子さんの一家】
御褒美を献金
校洞国民学校四年生尹應變君は二十一日鐘路署を訪れ、同署主催の「防空作品展覧会」に灯火管制遮光具を出品し特選さた際貰った賞金をそっくり献金寄託した。